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久しぶりの改訂です

こんにちは~、長らくブログを忘れていましたが、掲示板に書くのも久しぶりです。ほとんど人の目に触れることもないブログなので、久々に書いてみようと思います。コロナパンデミック劇場もそろそろお終いにしてほしい昨今です。公には口に出すこともはばかられますが、今のマスコミを挙げての大本営発表にはいささか疑問です。わずか1年余りの治験しかやっていないワクチンの安全性も疑問ですし、ワクチン信仰やマスク警察などの同調圧力も怖いです。毎週、中日新聞は世界の感染状況をグラフにして発表していますが、いま世界で100万人当たりの感染者数が最も多いのがイスラエルです。そして、フランスとかのヨーロッパ諸国、アメリカ、と続きます。イスラエルは4回目の接種も始まっている国ですが、この数字を見ると、このワクチンは全く効かないことは誰が見ても分かります。重症化を防ぐとか言われていますが、その根拠はわかりません。ただ、コロナ感染はワクチンを2回打った人の方が、未接種者より感染率が高いという発表もあります。いったいどんな効果なんでしょうかね?
世界中をあげて、ワクチン、ワクチンと推奨し、義務化の国も出てきました。ワクチンを打ってない人が様々な場面から排除されようとしています。ワクパス→ マイナンバーカードへの紐づけとして、国民総管理システムに組み入れられそうな事態です。
 高橋源一郎さんの本に「正しさ」の同調圧力が今まで以上に強まっているとありましたが、まさにその状態です。「正しさ」は時に移ろいやすいものです。モノ言えぬ空気(特にコロナに関して)がとても強いです。まして、毎日、TVなどのマスコミを通じて広報しているので、ワクチン打つのが当たり前の風潮です。「あなたとあなたの大切な人を守るために~」というキャッチコピーは日本人の人に迷惑をかけないという気持ちに訴える力は相当なものです。まるで、打たなければ自己中ですね。また、反ワクチンの医者や専門家がたくさんの異議申し立てをしていますが、ニュースにすらなりません。厚労省に450名の専門家によるワクチン反対の嘆願書が6月にだされましたが、どこのマスコミも取り上げませんでした。これではメディア・リテラシーが保てません。
さらには陰謀論?とかいって排除しようとしています。どちらの意見も公平に議論できる俎上に挙げてこそのマスコミですが、もはや戦時中と同じ状態です。
 マスクがウィルスを封じ込めるデータはありません。マスクの穴よりウィルスの方が格段に小さいからです。多少の飛沫は防ぐことができるかもしれませんが、マスクをつけている弊害の方が大きいというデータもあるようです。脳に届く酸素量が20%少なくなるそうで、小さい子どもたちには大きなリスクです。また、高齢者にとっても呼吸困難や認知症になりやすいということも言われています。まして、不織布は石油系プラスティックです。有害な物質がカラダに吸い込まれます。不織布が捨てられて、環境問題化しているし、ウミガメのお腹から出てきたニュースもあります。なんでこんなものを奨励するんだろう?
そろそろ日本人も気づいていい頃だと思うけど、この空気感では難しいかなぁ~?はやく指定感染症の枠をとっぱらって普通の風邪にしてもいい頃だが、なにがそれを阻んでいるのだろうか?
 ワクチンを打ったとも打たないとも言えぬ空気感が息苦しいです。ちなみにインフルエンザのワクチンが任意になってから、私は
1度も打っていません。しかし、この30年ほどはかかっていません。(笑) コロナワクチンも今のところ任意です。打つ選択をした人も打たない選択をした人も、それぞれの事情や意志があることを尊重したいと思います。
 消毒消毒の風潮も違和感です。耐性菌を増やすだけです。自然免疫力をキープしていきたいときに科学の力で滅菌が日常になる、これもTVで毎度毎度宣伝されています。見えない菌やウィルスにいつでもどこでもシュッ、シュッ~~、こんなに化学物質を空気中にまき散らし、身体に吹きかけ、大丈夫? 空気や水や大地を汚染させ、SDGsって言ってられるのかしら?
人も自然の一部です。調和とバランスを保ちながら謙虚に生きたいものです。
人類と地球はこの先どうなって行くんだろうか? 久しぶりにぼやいてみました。みなさま、ご自愛くださいませ~~~。

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7月7日

 7月7日はやっぱり雨降りですね。すこ~し、曇り空ですが夜半はどうでしょうか?
フェースブックにせよ、ブログにせよ発信し続けるのはなかなか大変です。日々いろんなことが起こり、いろんな思いが錯綜しますが、自分でもまとまりがつかなかったり、個人的なことであったり・・・。
「個人的なことは、すべて政治的なこと」、この名言もまたしかりですが、日々の葛藤を文字化して、
何らかのアクションをしていくことも、これまたエネルギーのいることです。自分のできる範囲で取捨選択をしながら、優先順位を考え、ささやかに積み重ねていくしかありません。
最近のアクションの1つは、対等な話し合いの積み重ねの練習です。これまでもいろんな活動をやってきましたが、最終的にこれができなければ、民主的な合意形成には至りません。仕事としてやっている国際理解教育のワークショップはまさにそのスキルを積むものですが、仕事以外の人間関係の中でもこのことがとても気になります。
 ある選挙運動を手伝ったときにも、それを強く感じました。また、個人的な対人関係においてでも、いつもそれが頭をよぎります。
どんなに理念や理想が似通っていたとしても、相手を尊重して対等な話ができない人はたくさんいます。
 最近見た映画の中の1つですが、「RBG」(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)、アメリカの(女性)最高裁判事のドキュメントですが、彼女は女性の権利を法の下の平等の観点から、さまざまに改革を行った人です。しかし、彼女の友人の一人に、彼女とは全く信条の正反対の保守の男性がいます。その彼との関係性をみるにつけ、思想信条が違えど、互いを尊重しあい話し合いができる関係もあることがよく理解できます。相手を個人として対等に尊重すれば、話し合うことができるということです。なかなかおもしろい関係でした。
 最近は似通った理想を語る人たちにそれができてないことを感じることが多く、がっかりが多かったので、なるほどと思いました。
自分だけが正しい、自分がスタンダードと思い込んでいると、人の声に耳を傾けることができません。
二人で話していても、一方的に5分以上、立て続けにしゃべり続ける人、すでに人権侵害です。(笑)
(対等な)親しい人と話していて、話す時間のバランスを考えてみたことがあるでしょうか?ヒフティ・ヒフティなら、気持ちよい会話ですが、7:3、8:2、9:1なら、圧迫感でおしつぶされそうになります。気持ちよくありません。最近は気持ちよくない圧迫感を感じると体が避けてしまいます。
 多様性の尊重がいわれて久しいですが、自分とは異なることを受け止める力こそ、今問われていると思います。
それは同意することではなく、相手を受け止め、尊重するところから始まり、対等な関係性が築かれていくと思います。
民主主義の原点もそのあたりかな~と、長年の活動や人間関係をふりかえりつくづく思います。反省ももちろんあるので、自分にも言い聞かせるように思うようにしています。また、
気づきのタイミングも人それぞれと思い、寛容になることも心がけていますが、気持ちよくない関係性はやはり避けようとしていることに気づきますが、自分にエネルギーがなくなってきていることも確かです。エネルギーの使い方も自然と考えているようです。
日本社会に増々蔓延している同調圧力に流されることなく、自由な個人としてだれもが尊重される社会・・・・。
なんといっても、抑圧されない自由が心地よいからです。
リベラルな人たちもその辺が浸透するといいですね~~。
 

4月21日

お知らせです。
5月11日、どくしょ界を開催します。
ぎたんじゃり閉店から5年間、細々と続けてきた会です。
「多様性と対等性」をモットーに民主的話し合いをコツコツと重ねてきました。
テーマも担当者も毎回変わります。
次回は上記に開催します。

いつもはクローズドな会ですが、(なぜかといえば日程が土壇場になって変更したり、急に今日はなしとかいう臨機応変な会のため)
次回は一応今のところ確定しました。(笑)
たまには告知してみようと思います。ご興味ある方はご連絡くださりませ。
詳細をお知らせします。では~~~

2月21日

 はやいものですね。時の流れはさらに加速している今日このごろです。
時の流れを速く感じるのは、たぶん年齢が増すにつれて、といいますがまさにそのようです。
それがなぜそう感じるのかといえば、感動がなくなったからだとチコちゃんは言っています。
心が動くことが多い人は、たぶん時間もゆっくりかもしれません。
昨日会ったことを思い出すも、どんなことがあったかも忘れてしまっている昨今、それこそあっというまの24時間です。
それに比べて、子どもはあったことを事細かく覚えていて、それを思い出し、言葉にするだけでもすごい時間がかかり、きりなく思い出すようです。そりゃ、時間はかかっているわな~。

それなりにいろんなことをやっていても、もう慣れっこになっていて、さして感動もおぼえなくなってしまったからか
なんだか味気ない気がします。
国際理解教育のワークのプログラムの中に、昨年の今頃はできなかったけど、今はできるようになったこと
というのがあるのですが、この年になると昨年の今頃はできたのに、今はできなくなったことのほうが目立ちます。
このプログラムは高齢者むけにはやらない方がいいかもしれません。(笑)

でもできないなりに、なにかしら夢を持っていたいものです。
最近のささやかな夢は、練習しているネイティブ・アメリカンフルートの仲間で、慰問のボランティア演奏をすることが
目標です。ちょっと楽しい夢です。実現するかはまだまだですが、いつかはどこかでのささやかな夢です。



12が8日

また1か月があっという間に過ぎてしまいました。やることが特段多いとも思えませんが、やり方と要領がだんだん悪くなっているようです。フリーというのは、自分ですべて管理しなければならないわけで、スケジュール調整や段取りなど、本当に大変です。毎日決まったお仕事の方がよっぽど楽かもしれません。やることを考えなくても職場に行けばやることが待っているわけですから。(笑)
 
 遠距離介護が入ってくるので、これがまたスケジュールを調整しなおすことになり焦ります。93歳の父は、奇跡的に快方に向かい
病院を出されるようになりました。普通の人のように回復したわけではないのですが、胃ろうが効いたようで薬品による治療が終わりました。リハビリとはいうものの、車いすに座る練習からです。1年半、寝たきりだった足腰はもうほとんどいうことを聞いてくれません。
車いすに座らされても15分も持ちません。これからもおそらく、なが~~い闘病生活です。意識はしっかりしているのでなおさらかわいそうです。まだベッドの横に本と携帯をしっかり確保しています。元気な時に終末期には胃ろうをしないと言っていたのですが、胃の治療が薬や、内視鏡でできなくなったので、やむなく胃に穴を開けました。治療後からは栄養補給が始まり、めきめき回復してきました。命は不思議です。生まれることも死ぬことも自分では決められないようです。どんな死に方を選ぶかも、どのくらい達成されるのかわかりません。せめて、エンディングノートは書き記しておこうと思いますが、それでも自己決定はどこまで可能なのかむずかしいようです。母の逝き方、父の終末期からいつも考えさせられています。まして、だれかの、あるいは両親であっても、いのちにつながる決定を自分がしなければならないのはどうしても避けたいです。意思疎通ができるのにもかかわらず胃ろうを断ることはできませんでした。この1年も大手術のあと、何度も危篤になりましたが、そのたびに最善の処置をお願いしてきました。今となっては父の遺志を聞くことすらできません。少しでもながく寄り添ってあげたい(いてほしい)子のわがままかもしれません。

 
プロフィール

ぎたんじゃり

Author:ぎたんじゃり
1998年9月に愛知県安城市に開店したフェアトレードとエコロジーを推進するお店です。
2013年6月より、刈谷市に移転し、この地域のフェアトレードの窓口としての役割を担っています。
「Think globally Act locally」の精神で公正な社会、共に生きる社会を目指して、発信を続けていきます。

2016年より刈谷市の悠遊舎の閉店により、フェアトレードの店頭販売は終了しました。なお、2013年より事務局として、フェアトレードの共同購入などの支援は継続しています。

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